【旅の本質=情報の客観視=自己の客観視】

もうすぐ世は10連休に突入です。
みなさんはいかが過ごされますか?

僕は鹿児島以外の全都道府県を何度も旅していますが、たまに「どうして旅しようと思ったんですか?」ときかれることがあります。

僕の場合は温泉だったり、ただ知らない土地を知りたいという「旅そのもの」が目的ですが、旅に付随する体験的価値を得ることを旨とする、いわゆる「自分探しの旅」を目的に旅をする人のほうが、同年代や下の世代には多い気がします。ってか、19歳で温泉巡りだけを目的にほぼ日本一周した人間を僕は自分以外知りません(笑

「自分探し」を目的に旅に出ようと思う人は、たいてい物事を自分の中に抱え込んでしまったり、自分の考えとまわりの環境がうまく噛み合わないジレンマがあったり、ふいに「このままでいいのだろうか」という不安感や虚無感におそわれたりする人であるように思います。

結論から言うと、そういう人が「自分探しの旅」にでることを、僕は強くおすすめします。

たまに「自分探しの旅」を否定する人もいますが、それは旅というものをそもそも理解していないのでしょう。観光と旅は全く別物です。

辞書的な意味の違いは置いておくとして、柳田国男は「旅は本を読むのと同じこと」だと言っています。まさにその通りだと僕は思います。

最近は本を読まなくても、スマホをちょっとタップするだけで膨大な情報を一瞬で入手することが可能になりました。それ自体は素晴らしいことだと思います。ただ、「検索」という行為の最大の弱点は「自分の頭のなかに思い浮かぶ情報」しか入手できないという点です。反対に、良書や旅というものは「自分の頭に存在しなかった情報・概念」を得ることができます。

例えば、北海道に行っておいしいカニが食べたいと思えば検索すれば簡単に見つかりますし、知床や大雪山系や利尻富士などの自然を満喫するためのルートも簡単に入手できます。しかし、それだと日常会話では絶対にでてこない内陸部のアイヌ遺跡であるチャシについてや、沿岸部の戦時遺跡であるトーチカのこととか、そういった文化的・歴史的なものについては一切知ることはないわけです(まれに付随的にそういうのが書かれたサイトもありますけどね)。

自分の頭になかった情報を仕入れるということは、固定観念や先入観を取り払い、柔軟な頭を作るのに役立ちます。

他にも、道民は納豆やトマトに砂糖をかけたり、唐揚げをザンギとよびますが、内地ではありえませんよね。兵庫ではメロンパンをサンライズとよぶし、宮崎では日向夏を醤油につけて食べる。『美味〇んぼ』でありましたが、今となっては当たり前にあるアンドーナツやとんかつ、カレー南ばんだって、それらが初めて登場したときは衝撃的だったわけです。

固定観念や先入観を取り払い、柔軟な頭を作るということは、情報を客観視できるようになるということです。

小さなコミュニティで、変わらない環境に居続けると、自分の頭にない情報に出会ったときに「そんなのは間違っている」「おかしい」「意味わかんない」とか、情報を客観視できずに無思考で排斥するだけになりがちです。宗教集団であればそれでいいでしょうけど、判断基準が主観的であったり、価値基準が一元的だったりすると、そこから少しでもずれてしまえば違和感や不快感を感じるようになると思います。

情報を客観視できなければ、そこから抜け出すことはできません。

情報を客観視できるようになるためには、多くの「価値ある情報」に触れるしかありません。「そんな発想はなかったな」「そういう考えもあるんだ」といった「価値ある情報」にふれることでやっと、自分を客観視できるようになります。

「自分探しの旅」とはつまるところ、主観的な自我を取り払って価値ある情報に触れ、自己を相対化させることで自分自身を客観視する行為、と言えるのではないでしょうか。なんかヘーゲルのアウフヘーベンみたいですね。

自分を客観視できるようになれば、自己のポジショニングの最適化だったり、自分の言動が及ぼす影響なども見通せるようになります。

だから僕は、旅が自分探しにつながると思っています。

ちなみに、先述の柳田国男の言葉の続きに「つまらぬ本を読んで人生の時間を無駄にしないことが重要なように、良い旅をして自己に役立てることが大切」だとあります。そういった情報の選択も、良き旅をして情報の客観視ができるようになれば自然と身につくということです。

良き運命の旅を! from 『蒼〇の拳』

ちなみに、こんな偉そうなこと書いておきながら、僕は一度も日本から出たことありません(笑

 

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